↑HOME
←目 次
【園田寿・井田良・加藤克佳著『刑事法講義ノート{第2版}』(1996年)より】
刑法における「行為」とは何か
園田 寿
刑法学において「行為」が問題とされるところでは、行為が一つの問題系として定立されながらも、常に他の要素へと還元されてきたのであった。たとえば、主観的なものと客観的なものへ、あるいは意図と結果へといった具合である。そして、これと関連する形で、行為を評価のそじょう俎上にのせる場合には、行為主体の意図に従って行為を評価すべきか、あるいは現実的な結果に則して評価すべきかといった点が争われてきたのであった。
1 行為という概念
まず、行為とは肉体的動作と同義ではないことに注目しよう。行為の考察にあたって、まずわれわれは行為が自然界の出来事と決定的に異なるということに気づくだろう。たとえば「書く」という行為。何かを書く場合、道具の物理的性質は書くという行為の絶対的な制約条件ではない。何を使っても書けるし、右手をあるいは左手を使ってもよい。それぞれ肉体的動作としては全く異なっているが、それらはすべて「書く」という一つの「行為」によって表現されうる。
また、逆に同一の動作が、異なった意味をもちうることもある。手を挙げるという動作は、ある時は「質問」という意思表示であるし、またある時にはタクシーに「乗車する」という意思表示でもある。座って何もしないということも、抗議の現れと理解される場合もあれば、怠惰の現れと解釈される場合もある。事実としては全く異なった動作が、状況によって同一の意味をもちうるということ、あるいは逆に同一の動作が全く異なった意味をもちうるという事実、これは人間の動作を物理的運動として見る限り絶対に説明不可能なことである。つまり、自然的事実を説明する方法では人の行為は説明できないから、「行為」という概念は事実そのものを指すための言葉ではない。これが、行為の考察にあたって留意すべき第一点である。
2 行為概念の段階性
「あなたは今どんな行為をしていますか」。このように問われたとき、一体どのように答えればよいのだろうか。私は、今机に「向かって」、パソコンのキーボードを「叩いて」、ディスプレイに文字を「表示させている」。ときおりコーヒーを「飲みながら」、画面を「眺めている」。それらの一つひとつは確かに私の「行為」である。しかし、それら無数の細かい私の「行為」を一括して、単純に私は今「原稿を書いている」と一個の「行為」に統合して表現することも可能である。このように一つひとつの「行為」として考えられていたものも、より上位の「行為」に統合することが可能なのである。ここに、行為を一つの問題系として定立させる場合の厄介な点がある。
なぜ、「行為」はより上位の包括的な「行為」へと統合可能なのだろうか。何気なく動作することがある。手を挙げる。座る。歩く。首を振る。そのような動作は、通常は道徳的にも法的にも何ら問題とはならない。しかし、そのような動作が本人あるいは周囲にとって意味をもつにいたる場合には、「行為」と呼ばれる。私は、何気なく眼鏡に手をやる。しかし、かりに私が野球チームの監督であり、今が試合中であったとすれば、場合によっては「眼鏡に手をやる」という私の動作がきわめて重要な意味を帯びた「行為」となりうる。この場合、肉体的動作を行為たらしめているのは一定の約束事(規範)である。われわれの肉体的動作が有意味な行為となるためには、当該動作が何らかのルール(規範)によって解釈可能であることが必要なのである。
ところで、ルールは社会的なコンテクストに依存しており、ルール自体が重畳的であるために、行為はさまざまなコンテクストで、またさまざまな段階で問題とされうる。私が論文の構想を練るために、散歩しながら思索にふけ耽っているとしよう。「何をしているのですか」と聞かれて、「歩いています」、「軽い運動をしています」、「散歩をしています」、「思索しています」等、これらすべての答えは可能である。そのいずれがその場の答えとして適当かは、一定の社会的状況に依存するのである。以上が、行為の性質についての第二点である。
3 行為と規範
以上の単純な考察から、何が言えるだろうか。
(1) 第一に、われわれの任意の身体動作が「行為である」とされるためには、当該動作が何らかの社会的規則(規範)に従っていることが必要である。あるいは、当該動作が規範に合致している場合にはじめて、それが「行為」と呼ばれる。いかなる行為も規範を媒介することなしに論じることはできない。規範とは、言葉を代えれば、「行為」を承認したり拒否したりする「他者」のなまざしである。他者の視線の中においてのみ、われわれは「行為」することができるのであって、全く他者が介在しない(究極的な)「私的行為」ということは概念矛盾である。行為とは、他者に対する関係的概念なのである。関係的概念であるからこそ、その実体というものを考えにくい。行為の中核的要素は規範であり、それは行為において事実と融合している。
(2) 第二に、上のことは、行為主体の側から述べると、たとえそれが犯罪であっても、自らの身体動作を特定の社会的パターンに合致させるときにはじめてその動作が当該タイプを表示する「行為」として社会的に認知される、ということである。「首を振る」ことが「拒否」を意味するというルール(規範)がまず存在し、そのパターンに自らの動作を合致させようとする意図があってはじめて、「首を振る」という動作に「拒否」という意味を与えることができる。
(3) 第三に、おそらく人の意思が全く介在しない動作は、(それが社会にとって好ましくないという評価は可能であっても)「行為」と呼ばれるべきではないだろう。人間の生理的な反射運動に対しては、規範は妥当しないからである。規範が妥当しえないがゆえに、反射運動は行為ではありえない。
(4) 第四に、人は「行為」を通じて意思を実現する存在である以上、「行為」は意味を志向するものであり、意味の選択である。したがって意思は全くの無内容なものではありえない。意思はつねに何かに対する意思であって、対象性を欠く漠然とした意思一般は想像しにくい。しかし、それは行為の評価において具体的な意思が要件とされるということを意味しない。ある人の動作を刑法的に「行為である」と評価することは、単にその行為の始動者を「責任」や「処罰」といった刑法的な規範的概念のネットワークの中へ、つまり当該規範の無限集合の一つとして取り込むことを意味するのである。
(5) 第五に、同一人の動作である以上、その評価の視点によっては現実的な意思が問題とならない場合もある。たとえば車を運転していて、不注意で人を傷つけたとしよう。自らの運転が人を傷つけるということは全く意識されていないが、車を運転するというのは、上の意味でまぎれもなく意思的な「(運転)行為」である。そして、運転という「行為」と人を傷つけたという事実は、あくまでも同一の事実に対する視点の相違、説明の違いなのである。つまり、同一の事実に対して、少なくとも一つは「行為」と評価できるたんちょ端著があれば、その同一の出来事を別の観点から「行為」と呼んでもよいのである。
↑HOME
←目 次